香水の説明文を読むと、必ずと言っていいほど音楽の言葉に出会う。トップノート、アコード、ハーモニー。どれも本来は音を語るための語彙で、匂いのためにつくられた言葉ではない。ではなぜ、香りは音楽の言葉を借りることになったのか。その来歴をたどると、19世紀ロンドンの一冊の本に行き着く。
匂いを五線譜に並べた男
ジョージ・ウィリアム・セプティマス・ピース(G. W. Septimus Piesse、1820–1882)は、ロンドンで香料商を営みながら著述をした人物である。1857年に出した『The Art of Perfumery』で、彼は匂いと音を並べて論じた。
匂いには、音楽におけるオクターヴのようなものがある。ある種の匂いは、楽器の鍵のように互いに一致する。
— G. W. Septimus Piesse『The Art of Perfumery』(1857) より、筆者訳
ピースはこれを比喩で終わらせなかった。Gamut of Odours(匂いの音域)と題した図で、高音部記号と低音部記号の二段の譜表を引き、そこにシベット、ヴァイオレット、ローズ、パチュリといった香料を音符として書き込んだのである。使い方も添えられている。譜面を見て和音になる香料を選べ、そうすれば調和した香りになる、と。この一覧に「オドフォン(odophone)」という呼び名が与えられたのは、息子のシャルル・ピースが1887年に出した著作でのことだとされる。
残った言葉と、残らなかった装置
オドフォンそのものは、調香の道具としては定着しなかった。音の高さは周波数という一本の物差しで並べられるが、匂いにはそれに相当する軸がない。ピースが割り当てた音程は、彼個人の感覚を体系の形に整えたものであって、他人が同じ譜面から同じ香りを組み立てられる保証はなかった。
それでも、語彙だけは残った。今日の香水の説明に音楽の言葉が並ぶのは、この19世紀の試みが失敗しながら比喩を業界語として置いていったからである。
| 語 | 音楽での意味 | 香水での意味 | ずれているところ |
|---|---|---|---|
| ノート note | 個々の音、音符 | 個々の香りの要素、または揮発の段階(トップ/ミドル/ラスト) | 音符は高さを指すが、ノートは素材名と時間軸の両方に使われる |
| アコード accord | 和音。同時に鳴る複数の音 | 複数の香料が溶け合って別のひとつに聞こえる状態 | 和音は個々の音を聞き分けられるが、アコードは分解できないことが価値になる |
| ハーモニー harmony | 和声。音の重なりの理論 | 全体のまとまりの良さ | 香りの側に和声学に当たる規則体系は存在しない |
| オクターヴ octave | 周波数が2倍になる関係 | ピースの図以外ではほぼ使われない | 匂いに周波数のような一次元の物差しがない |
三層のピラミッドはいつ生まれたか
トップ・ミドル・ベースという三層の説明は、ピースの音階とは別の系譜から来ている。その土台をつくったのはイギリスの化学者 W. A. ポーシェで、1955年に『Journal of the Society of Cosmetic Chemists』誌へ発表した「A classification of odours and its uses」で、332種の香料を揮発の速さで並べ、1から100までの係数を与えた。1〜14をトップノート、15〜60をミドルノート、61〜100をベースノートとする区切りである。感覚の話だった「ノート」に、はじめて測定可能な軸が与えられた。
これを調香の教育に落とし込んだのがフランスの調香師ジャン・カルレ(Jean Carles、1892–1966)である。カルレは1946年にグラースのルール社で調香学校を立ち上げて初代校長を務め、1961年12月に「A Method of Creation in Perfumery」を著した。ベースから積み上げて香りを組み立てる彼の教程を通じて、三層構造は教室で教えられる型になっていく。
- 1857年ロンドン
『The Art of Perfumery』刊行
ピースが匂いを五線譜に並べ、「和音になる香料を選べ」と説く。
- 1887年ロンドン
「オドフォン」の命名
息子シャルル・ピースの著作で、この匂いの音階に名が与えられたとされる。
- 1955年イギリス
ポーシェの揮発係数
332種の香料を揮発の速さで1〜100に分類。トップ/ミドル/ベースに数値の裏づけがつく。
- 1961年グラース
カルレの調香教程
ベースから積み上げる方法論が文書化され、三層構造が教育の型として広まる。
比喩を実験にかける
音と匂いの結びつきは、詩的な言い回しにすぎないのだろうか。近年の心理学はこれを実験の対象にしている。クリジネルとスペンスが2012年に『Chemosensory Perception』誌へ発表した研究「Composing with Cross-modal Correspondences: Music and Odors in Concert」では、参加者に香りを嗅がせ、それに合う音の高さと楽器の種類を選ばせた。
- 砂糖漬けのオレンジやアイリスの香りは、ムスクや焙煎したコーヒーの香りより有意に高い音に対応づけられた
- 参加者は香りを、音の高さだけでなく楽器のクラス(弦・木管・金管など)にも一貫して割り当てた
- 快く感じられ、甘いと評価された刺激ほど、高い音と丸みのある形に結びつけられる傾向があった
音楽の比喩が取りこぼすもの
便利な比喩ほど、合わないところを見えにくくする。音楽の言葉が香りについて言い落としているのは、少なくとも三つある。
- 和音は同時に鳴るが、香りの三層は入れ替わる。ピラミッドは重なりの図ではなく、時間の経過を縦に描いた図である
- 聴き手は同じ曲を何度でも同じように聴けるが、嗅覚は同じ匂いを嗅ぎ続けると感じにくくなる(順応)。演奏の途中で耳が閉じていくようなものだ
- 公表される「ノート」は、必ずしも処方に入っている素材の一覧ではない。読み手に情景を伝えるための表記であり、分析結果ではない
- ノートnote
- 香りの構成要素、および揮発の段階。素材名(ローズノート)と時間帯(トップノート)の両方に使われるため、文脈で読み分ける。
- アコードaccord
- 複数の香料が溶け合い、単独の素材とは別の一つの印象になったもの。「アンバーアコード」のように、実在の素材名でない香りの名前として使われる。
- オドフォンodophone
- ピースが提案した、匂いを音階に対応させる一覧。実務には定着しなかったが、香りを音で語る習慣を残した。
- 揮発係数evaporation coefficient
- 香料が飛ぶ速さの指標。ポーシェが1〜100の尺度で示し、トップ/ミドル/ベースの区分の根拠になった。
それでも、この比喩は170年近く使われ続けている。厳密でないから使われているのではなく、香りを一人で嗅いで終わらせず、他人と共有するための足場になるからだろう。次に香水の説明で「ノート」の語を見かけたら、それが五線譜から来た言葉であることを思い出してほしい。
