デパートの香水売り場を歩くと、並んでいる名前のほとんどは服のブランドである。シャネル、ディオール、ランバン。いま棚にある香水の多くは、もともと服を仕立てる店から始まった。服を作る会社が香水も売るのは、いまでは当たり前に見える。けれど、それを最初にやってのけたパリの人物は、二十年足らずで店を失い、名前ごと忘れられた。

ポール・ポワレ。窮屈なコルセットから女性の身体を解放したと語られる服飾デザイナーが、1911 年に香水のブランドを立ち上げた。シャネルの N°5 より十年早い。なぜ先に始めた人が消え、あとから来た人が残ったのか。答えは香りそのものではなく、瓶の外側の仕組みにある。

「千二夜」と名づけた宴

1911 年、ポワレはパリの自宅で「千二夜」という名の仮装パーティーを開いた。『千夜一夜物語』の続きの一夜に見立てた催しで、招かれた客は東洋風の衣装で来るよう求められ、帰りには香水の瓶を手土産に持たされた。同じ年、彼は長女ロジーヌの名をとった香水ブランドレ・パルファン・ドゥ・ロジーヌと、次女マルティーヌの名をとったインテリア工房アトリエ・マルティーヌを立ち上げている。服と香りと部屋の飾りつけを、自分ひとりの名前でまとめて売ろうという考えだった。

ロジーヌの香水は、やがて四十種類を超える。1913 年の「ニュイ・ドゥ・シーヌ(中国の夜)」を作ったモーリス・シャレルは、もともとポワレの店で瓶を扱っていたガラス職人で、香りの才能を見込まれて調香の仕事に移った人である。瓶や箱のデザインは、アトリエ・マルティーヌの若い職人たちが手がけた。企画から製造、包装、販売まで、すべてがポワレの会社の中で完結していた。

金糸の刺繍が入った深い色の絹の布地と房飾りが、漆塗りの盆の上に重ねられている
ロジーヌの香水は、服と同じ東洋風の布や紙に包まれて売られた。香りより先に「ポワレの世界」を買ってもらう売り方だった。

ただし、彼が世界で最初だったわけではない。ロンドンの服飾デザイナー、リュシル(ダフ゠ゴードン夫人)は 1907 年ごろから自分の名前で香水を出している。正確に言えば、ポワレは「フランスで最初に自分の香水を持った服飾デザイナー」である。それでも、香りから瓶、包み紙、売り方までを一つのブランドとして丸ごと作り込んだ点で、彼のやり方は際立っていた。

名前を貸すという発明

ガブリエル・シャネルが N°5 を出したのは 1921 年である。作ったのは、ロシアの香料会社ラレで腕を磨いた調香師エルネスト・ボー。はじめはパリのカンボン通りにある自分の店で、客に手渡すようにして売られていた。ポワレの十年後であり、売り方もまだ同じだった。

N°5 は、バラとジャスミンとイランイランを束ねた花の香りに、アルデヒドと呼ばれる合成香料をたっぷり重ねた香水である。アルデヒドは石鹸のような、冷たく乾いた輝きを花に与えた。その結果できあがったのは、どの花とも言い当てられない香りだった。土台にはサンダルウッドとバニラが使われていると公表されている。ボーが第一次世界大戦中に北極圏に近い土地で従軍し、その冷たい空気の記憶がアルデヒドの使い方につながったという話は、この香水とともに語り継がれてきた。

転機は 1924 年に来る。デパート「ギャルリー・ラファイエット」の創業者テオフィル・バデールの紹介で、シャネルは化粧品会社ブルジョワを持つヴェルテメール兄弟と出会い、香水だけを扱う「パルファン・シャネル社」を作った。出資の割合はヴェルテメール側が 70%、バデール側が 20%、シャネル本人は 10%。製造も流通も資金もヴェルテメールが引き受け、シャネルは名前と創作だけを出す。香水は服のブランドの一部署ではなく、その名前を借りた別会社の商品になった。

ポワレ 1911シャネル 1924自分の会社で全部やる創作製造包装販売服のブランド ― 10%名前と創作香水会社 ― 90%製造・流通資金
違いは一箇所だけ。ポワレは全部を抱え、シャネルは名前以外を手放した。

この取り決めにシャネルは長く不満を持ち続け、1928 年から何十年も裁判で争っている。だが当時、ブルジョワは国をまたぐ販売網をすでに持つ化粧品会社だった。N°5 が世界中のデパートに並び、世界恐慌をくぐり抜けたのは、カンボン通りの店の売上ではなく、この会社の販売力と資金の力である。

続いたブランド、消えたブランド

1920 年代の終わりから、服のブランドの香水は次々に現れる。ジャンヌ・ランバンは 1924 年に香水部門を作り、1927 年、音楽家である娘マリー゠ブランシュの三十歳の誕生日に「アルページュ」を贈った。調香を担当したのはアンドレ・フレスとポール・ヴァシェで、名前は音楽用語のアルペジオ(分散和音)からとられている。

ジャン・パトゥは 1930 年、アンリ・アルメラスが作った「ジョイ」を「世界でいちばん高価な香水」として売り出した。世界恐慌の翌年である。エルザ・スキャパレリは 1937 年、ジャン・カルルが作った「ショッキング」を、画家レオノール・フィニがデザインした女性の胴体をかたどった瓶に詰めた。クリスチャン・ディオールは 1947 年、最初のコレクションと同じ年に「ミス ディオール」を出している。調香にはポール・ヴァシェとジャン・カルルの名前が挙げられる。

十年、ロジーヌだけ1911192719211929ロジーヌ創業アルページュN°5ポワレの店が閉じる
ポワレがひとりで走った十年と、あとに続くブランドが現れてからの八年。後続が出そろったころに、先に始めた店だけが消えた。

同じ 1929 年、ポワレの店は閉じた。第一次世界大戦の従軍から 1919 年に戻ったときには経営はすでに傾いており、シャネルが代表する飾り気のない服の時代に、彼の東洋趣味は古くさく見えた。売れ残った在庫は重さで量り売りされ、布くずとして引き取られたと伝えられる。ロジーヌの香水も世界恐慌を越えられなかった。ポワレは 1944 年、貧しいまま亡くなり、葬儀の費用を出したのはスキャパレリだった。

この記事で触れたブランド

早すぎたのではなく、手放さなかった

ポワレの失敗は「早すぎたからだ」と語られがちである。しかし彼の判断は、ほとんどが正しかった。服のブランドの名前で香水を売ること、娘の名前を借りて物語をつけること、瓶と箱を美術品のように作り込むこと、パーティーで香りを体験させること。どれも、あとに続くブランドがそのまま繰り返した。違っていたのは一点だけで、彼は香水を作る仕事と売る仕事を自分の手から離さなかった。

シャネルは 10% と引き換えに、それを手放した。のちに彼女が取り返そうとして争ったその契約こそが、皮肉にも N°5 を百年売れ続ける商品にした。ランバンもパトゥもディオールも、香水は服とは別の会社で扱っている。服のブランドの香水とは、じつは「服のブランドが作っていない香水」のことだった。

ロジーヌという名前は、1991 年にマリー゠エレーヌ・ロジョンがパリのパレ・ロワイヤルで引き継ぎ、薔薇を主題にした香水ブランドとしていまも続いている。彼女の祖父は、ポワレのために香水を作った調香師だった。ポワレの瓶は残らなかったが、名前だけは別の人の手で残った。

香水売り場に並ぶ名前を、もう一度見てほしい。その名前の持ち主は、多くの場合、瓶の中身を作っていないし、店の棚まで運んでもいない。名前と中身が切り離されていること。それが、香水を服の流行より長生きさせてきた。ポワレはその仕組みの入口までひとりで辿り着き、中身を人に任せるという最後の一歩だけを踏まなかった。

この記事で触れた調香師

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