1806年のある四半期、調香師シャルダンが皇帝ナポレオンに宛てた請求書には、オーデコロン162本、423フランとある。同じ紙にはアーモンドのペースト26壺と海綿20個が並ぶ。シャルダンとの取り決めは月に50本の定期納入だった。宮廷に仕えたレミュザ夫人の回想録は、月に60本という数字を伝えている。
いまの感覚で読むと、この数字は理解できない。香水を1日に2本近く空ける人間はいない。けれども同時代の人々は、これを贅沢とは見ても、不可解とは見なかった。皇帝が毎朝浴びていた液体は、私たちが香水と呼ぶものとは別の棚に置かれていたからである。
香るためではなく、擦るために
ナポレオン財団がまとめた皇帝の一日によれば、起床は朝7時ごろ。紅茶かオレンジの花の煎じ茶を飲みながら手紙に目を通し、そのあと非常に熱い風呂に1時間ほど浸かる。湯が冷めないよう、従者が熱い湯を足しつづけた。髭は従者コンスタンに鏡を持たせて自分で剃る。そして入浴と髭剃りのあと、全身をオーデコロンで擦らせた。来客を迎えるまでの身支度に、およそ2時間をかけたという。
ここで使われている動詞は「つける」ではなく「擦る」である。手首に一滴のせて香りを立たせるのではない。瓶を傾けて首筋や肩に流し、手やブラシで肌に擦り込む。フランス語でフリクションと呼ばれたこの習慣の重心は、香りを纏うことよりも、身体を冷やし、引き締め、目を覚ますことにあった。遠征に持ち出す身の回り品の小箱にも、櫛、剃刀、爪やすり、歯ブラシと並んでオーデコロンの瓶が収まっていた。

薬学史家ジャン・ヴァスが1969年に『薬学史評論』へ寄せた小論は、皇帝が強すぎる香りを苦手としたこと、化粧台に上がることを許されたのはファリナの「ルーロー」だけだったことを伝えている。ルーローは緑色をした細長い紡錘形の瓶で、決戦の前夜、作戦を練る机の手の届くところに1本置かれていたという。皇帝はこれを、疲れを取り、頭を冴えさせるものと見なしていた。
驚異の水は、薬の棚にあった
オーデコロンは1709年、イタリアからケルンに移り住んだジョヴァンニ・マリア・ファリナが売り出した。前年に兄へ宛てた手紙で、彼は自分の見つけた香りを、雨上がりのイタリアの春の朝、山の水仙とオレンジの花にたとえている。ベルガモットやレモン、ネロリといった柑橘の精油を純度の高いアルコールに溶かした、当時としては驚くほど軽い液体だった。ひと瓶が役人の年俸の半分に当たったと伝えられる。
ただし、この液体は香水としてではなく、アクア・ミラビリス、つまり驚異の水として世に出た。18世紀の効能書きは、卒中、偏頭痛、目の痛み、壊血病、痛風、切り傷、麻痺にまで効くとうたい、人にも家畜にも使えるとしていた。使い方は3通りあった。ワインやブイヨンに数滴落として飲む。湿らせた綿に含ませて患部に当てる。そして入浴のあと、毛穴が開いているうちに身体へ擦り込む。いずれも当時の売り文句であって、効き目が確かめられていたわけではない。
月に50本という数字は、この3つを足し合わせると急に現実味を帯びる。皇帝にとってオーデコロンは、化粧水であり、気付けの水であり、身体を拭く水であり、ときに口にするものでもあった。香水は一滴ずつ減っていくが、水は桶で減っていく。
需要を見込んで、1806年にはジャン=マリー・ファリナを名乗る一族の1人がパリのサントノレ通り331番地に店を構え、皇帝と皇后マリー=ルイーズ、皇帝の母の御用達をうたった。この店は1862年にアルマン・ロジェとシャルル・ガレの手へ渡り、ロジェ・ガレとなる。ケルンの本家もまた、顧客としてナポレオンの名を伝えている。
ケルンの本家がいまも作りつづけているのが、ファリナ 1709 のオリジナル オーデコロンである。公表されている素材はベルガモット、レモン、ネロリ、オレンジブロッサムに、ムスクとアンバーの控えめな土台。柑橘がはじけて冷たさが立ち、花の柔らかさが少し残って、あとは静かに消えていく。処方は1709年から公開されていない。300年前に「春の朝」と呼ばれた香りの像を、いちばん素直に確かめられる1本だ。
1810年8月18日、薬と香水のあいだに線が引かれた
フランスでは1803年の法律が、処方を明かさない「秘密の薬」の販売を禁じていた。それでも万能薬の類は無くならない。1810年8月18日、ナポレオンは勅令で秘密の薬を審査する委員会を設け、持ち主に処方を提出させる仕組みを作った。何が入っているか分からないものを、薬として売らせないための仕組みである。
万病に効く水を売ってきたオーデコロンの作り手は、選択を迫られた。処方を差し出して薬でありつづけるか、薬効をうたうのをやめて処方を守るか。多くは後者を選び、オーデコロンは飲む薬から、外から使う香りの水へと名乗りを変えた。香水史ではそう説明されることが多い。売り場も、薬の棚から、手袋商を兼ねた香水商の棚へ移っていく。
もっとも、話はそこまで綺麗ではない。パリのファリナは後年の効能書きで、自分のオーデコロンはこの勅令の委員会に認められたと宣伝している。線を越えたのか、線の上に居座ったのか、答えは作り手によって違った。確かなのは、この日を境に「薬か、香水か」を名乗り分ける必要が生まれたこと、そしてその線を引いたのが、誰よりもこの水を浴びていた当人の政府だったことである。
セントヘレナで、従者は処方を書いた
1815年、皇帝は南大西洋のセントヘレナ島へ送られる。パリの調香師からの定期便は、もう届かない。第2従者で「マムルークのアリ」と呼ばれたルイ=エティエンヌ・サン=ドニは、島で手に入る材料でオーデコロンを作ろうとした。彼の手書きの処方は後年ヴェルサイユの競売に現れ、1991年、香水の保存機関オスモテークの創設者で調香師のジャン・ケルレオに託されたと伝えられる。ケルレオは処方のとおりに香りを復元し、オスモテークはいまもそれを保管している。
処方の骨格はベルガモット、オレンジの花、ローズマリーと、ケルンの水そのままである。流刑地で皇帝が取り戻そうとしたのは贅沢ではなく、朝の手順だった。熱い湯、剃刀、そして肩から流す冷たい水。香りは、その手順がまだ続いていることの証だった。

オーデコロンの骨格をつくる香料
- 香料ベルガモットミカン科の柑橘類(Citrus bergamia)。イタリア南部カラブリア地方が世界生産量の約80%を占める。果皮の冷搾法(コールドプレス)により精油を抽出し、約200個の果実から約100mlの精油が得られる。主要成分はリナリルアセテート(30-60%)とリナロール(11-22%)。爽やかで上品なシトラスノートにフローラルな奥行きを持つ。アールグレイ紅茶の香り付けとしても広く知られ、17世紀のケルンの水(オーデコロン)の主要素材として香水史に登場。フロクマリン(ベルガプテン)による光毒性があるため、IFRA規制によりベルガプテンフリー(FCF)品が主流。天然精油の価格は比較的手頃。調香師にとって最も基本的かつ不可欠な柑橘素材。

- 香料ネロリビターオレンジ(Citrus aurantium var. amara)の花から水蒸気蒸留法で抽出される精油。約1トンの花から約1kgしか採れない極めて貴重な天然香料。主要成分はリナロール(約30%)、リナリルアセテート(約10%)、ネロリドール。甘くフローラルでありながらシトラスのフレッシュさと蜜のような深みを併せ持つ、高貴で多面的な香り。17世紀にイタリア・ネロラ公国のマリー・アンヌ王妃が愛用したことから「ネロリ」と命名された。クラシックなオーデコロン(4711)の核となる素材である。南フランス・グラース、チュニジア、モロッコが主要産地。精油価格は1kgあたり約4,000-6,000ユーロと高価。フレグランス業界で最も価値ある花の精油の一つ。

- 香料ローズマリーシソ科の常緑低木(Salvia rosmarinus、旧学名Rosmarinus officinalis)。チュニジア、モロッコ、スペイン、フランスが主要産地。水蒸気蒸留法で葉と花の先端部から精油を抽出し、主要成分は1,8-シネオール(約38-55%)、α-ピネン(約9-14%)、カンファー(約5-15%)。カンファラスでアロマティック、フレッシュでハーバルな香りにユーカリ様のクリアな印象を持つ。古代ギリシャでは記憶力増進の象徴とされた。精油価格は1kgあたり約15-50ユーロと非常に手頃。最も入手しやすいハーバル精油の一つ。アロマテラピーでは集中力向上の効果で知られる。

皇帝の家とオーデコロンの縁は、甥の代まで続く。1853年、ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランはナポレオン3世の妃ウジェニーのために1本のオーデコロンを作り、皇室御用達の称号を得た。いまもゲランが作りつづけているオーインペリアルである。瓶の肩を埋める蜂の浮き彫りは、初代ナポレオンが帝政の紋章に選んだ蜂をそのまま引いている。中身は柑橘を主体にした古典的なオーデコロンである。皇帝の家の香りは、半世紀たっても濃い香水ではなく、浴びる水のほうだった。
濃度の表のいちばん下にある理由
今日、オーデコロンは濃度の表のいちばん下に置かれている。香料の割合は数パーセント、持続は1、2時間。パルファムを頂点にした序列のなかで眺めると、それは「いちばん薄い香水」に見える。
けれども歴史の順序で見れば、逆である。浴びるための水が先にあり、濃度で香水を並べる序列はあとから作られた。薄いのは欠点ではなく、惜しまず使うための設計だった。朝、風呂上がりに掌いっぱい取って、首筋と肩に流す。162本の請求書は浪費の記録ではない。オーデコロンがまだ水だった時代の、正しい使い方の記録である。


