香水の構成にアイリスと書かれているとき、使われているのは紫の花ではない。土の下の根茎である。ここまでは、香水を少し調べたことのある人なら知っている。意外なのはその先で、畑から掘り上げたばかりの根茎を鼻に近づけても、あの冷たく粉っぽい香りはほとんどしない。

香りの無いものを掘り、皮を剥き、干し、何年も寝かせる。すると、あるときから香りが現れる。アイリスは、収穫のあとに香りが生まれる珍しい香料である。では、その香りはいつ、何から作られているのか。

畑では、誰もこの香りを嗅いでいない

香料に使われるアイリスは主に2種、イリス・パリダとイリス・ゲルマニカである。最上とされてきたのはイタリア・トスカーナのパリダで、フィレンツェの南、サン・ポーロ・イン・キャンティの周辺やヴァルダルノ上流の、石灰質で痩せた斜面に植えられる。フィレンツェの市章が百合に似たアイリスの花であることは、この土地と植物の付き合いの長さを物語っている。

株は植えてから3年、土の中で太らせる。夏、暑さを避けて夜明けから掘り上げ、ロンコリーノと呼ばれる小さな曲がった刃物で、黒い皮を1つずつ手で剥いていく。現れるのは白い芯で、これを麻袋に入れるか、風の通る屋根裏に広げて干す。畑の仕事はここで終わる。だが香料としては、まだ何も始まっていない。

皮を剥かれて白くなったアイリスの根茎が、窓のある屋根裏で簀の子状の木枠に一重に広げて干され、奥に口を開けた麻袋が置かれている
この時点では、まだほとんど匂わない。白い芯は、これから数年かけて香料になる。

棚の上で、3年かけて香りが生まれる

生の根茎に含まれているのは、イリダールと呼ばれる大きな分子である。これ自体はほとんど匂わない。乾いた根茎が空気に触れながら年を越すうち、イリダールはゆっくり酸化して壊れ、その破片としてイロンという小さな分子が生まれる。アイリスの香りの正体は、このイロンである。生成には3年から5年かかり、蓄積の山は貯蔵の3〜4年目に来るとされる。

畑で3年、棚で3年。合わせて6年たって初めて、根は香料になる。寝かせた根茎は粉に挽かれ、水蒸気蒸留にかけられる。乾燥した根茎1トンから得られるのは、およそ2キログラム。脂肪酸の1種であるミリスチン酸を多く含むために常温で蝋のように固まり、その見た目からオリスバターと呼ばれる。バターのうちイロンが占めるのは1割から1割5分ほどで、脂肪酸を除いて香りの成分を濃縮したものがオリスアブソリュートである。

畑で3年棚で3年香りはまだ無いイリダール → イロン植える掘って皮を剥く蒸留する乾燥根茎 1トン → バター 約2kg
香りが作られるのは後半の3年。植物が生きているあいだではなく、収穫されたあとである。

アイリスが香料のなかで最も高価な部類に入るのは、珍しい植物だからではない。6年分の土地と倉庫と手仕事が、1キログラムに畳み込まれているからだ。

この年数をそのまま名前にした香水がある。ゲランのイリス パリダ エクストレ 6の「6」は、生育の3年と乾燥の3年を足した数だとブランドは説明している。オリスバターを主役に据え、アーモンドとムスクで粉っぽさを厚くし、白いスエードを思わせる革の質感とサンダルウッドで包む構成として公表されている。素材の来歴そのものを主題にした1本である。

スミレを探して根を掘り、別の分子を作ってしまった

19世紀の終わり、香料化学者が欲しがっていたのはスミレの花の香りだった。花そのものから香りを採るのは途方もなく高くつく。ところがオリスの根の油は、スミレによく似た匂いがする。ならば同じ成分が入っているはずだ。ドイツの化学者フェルディナント・ティーマンとパウル・クリューガーはそう考え、オリスの油から香りの本体を取り出して、イロンと名づけた。1893年のことである。

2人は続いてイロンの構造を推定し、比較のために、似た骨格をもつ化合物を手近な材料から合成した。柑橘に似た匂いのシトラールにアセトンを縮合させ、酸で環を閉じる。できあがった物質は、驚くほどスミレの匂いがした。2人はこれをイオノンと名づける。ギリシャ語でスミレを指すイオンからである。

後から見れば、この研究は取り違えを抱えていた。2人が推定したイロンの構造は誤っており、正しい構造が定まるのは54年後、立体構造まで決まるのは1971年である。イオノンはイロンではなかった。ところが1972年、本物のスミレの花の油を分析すると、そこから見つかったのはアルファ・イオノンとベータ・イオノンのほうだった。根のなかにスミレを探した2人は、根の分子を見誤り、見誤った先で本物のスミレの分子を作っていたことになる。

オリスの根スミレの花イロンイオノン1893年 単離似た匂い構造を見誤って合成1972年 花から検出取り違えの先に、本物がいた
スミレに似ているから根を調べ、根の分子を見誤って作った物質が、79年後にスミレの花から見つかる。

イオノンは安く、大量に作れた。スミレの香りは一気に手の届くものになり、オリスは「スミレの代わり」という役目から解かれて、それ自体の香りとして使われるようになる。冷たく、粉っぽく、わずかに人参や革を思わせる、あの香りである。

この記事で触れた香料

粉の匂い、と私たちが呼んでいるもの

アイリスの香りを言葉にするとき、人はたいていパウダリーと言う。これは比喩である前に、歴史である。精油を採る技術が整う前、オリスは粉のまま使われた。乾いた根茎を挽いた白い粉は、鬘や革の手袋に振りかけられ、リネンの戸棚に香りを移すために置かれた。髪粉や白粉の匂いとは、長いあいだオリスの匂いのことだった。私たちはアイリスを粉っぽいと感じているのではなく、粉の匂いとしてアイリスを覚えてきたのである。

この粉の冷たさを、青い苦みとぶつけたのがシャネルのN°19である。1971年、専属調香師アンリ・ロベールの作で、名前はマドモアゼル・シャネルの誕生日である8月19日に由来する。ガルバナムの鋭いグリーンと、アイリス パリダの柔らかな粉が正面から向き合う構成として公表されている。甘さに頼らず、背筋の伸びた印象を残す。

セルジュ・ルタンスのイリス シルバー ミストは、粉の歴史のほうを主題にしている。ブランドは、トスカーナで古くからアイリスの根茎がリネンの戸棚に香りを移すために使われてきたことを着想の源に挙げる。花を飾らず、根の冷たさと粉っぽさだけを霧のように広げた1本で、アイリスという素材を単独で知りたいときの基準になる。

フレデリック・マルのイリス プードゥルは2000年、ピエール・ブルドンの調香。名前のとおり「粉のアイリス」で、アルデヒドとイランイラン、ローズ、スミレの花束の下に、アイリスの柔らかさが見え隠れする。サンダルウッドとバニラ、トンカビーン、ムスクが受け止める古典的なフローラル アルデヒドとして公表されており、粉の匂いが白粉の記憶と地続きであることを思い出させる。

産地の側から出された答えが、フィレンツェの薬局サンタ・マリア・ノヴェッラのリリスである。ブランドは、アイリスが1266年からフィレンツェの紋章であることを名前の由来に挙げる。ガルバナムとティムールペッパー、ネロリで始まり、ゼラニウムとチャンパカ、ジャスミン・サンバックを経て、アイリスとムスクの土台へ降りていく構成が公表されている。街の花を、街の薬局が香りにした1本だ。

嗅いでいるのは、6年前の畑である

多くの天然香料は、植物が生きているあいだに作ったものを人が取り出している。アイリスは違う。植物が遺した匂わない分子を、空気と時間が香りに変える。だから出来を左右するのは、育った年の天候だけではない。そのあとの棚の乾き具合と、待った年数である。近年は、この熟成を酵素などの処理で大幅に縮める研究も報告されているが、トスカーナの屋根裏ではいまも根が年を越している。

次に香水の説明でアイリスの名を見つけたら、その香りが6年前にどこかの斜面で掘られ、そのあと誰にも嗅がれないまま、暗い棚の上で育ったものだということを思い出してほしい。アイリスは花の匂いでも、根の匂いでもない。待った時間の匂いがする。

関連用語水蒸気蒸留アブソリュート合成香料天然香料